シリア情勢から目が離せない
2011-04-23


3月11日に東日本大震災が起きるまで、世界が最も注目していたのはチュニジアの民主化運動に始まる「アラブの春」といわれる一連の民主化運動だ。そのアラブの春が今シリアに飛び火している。

世界地図の中近東のページを広げてみてほしい。シリアは中近東のほぼ真ん中にある。このシリアの民主化運動がどのように展開するかが「アラブの春」の行く末を占う試金石となると思う。

シリアの首都ダマスカスには紀元前9000年頃から人が居住していた痕跡があり、ダマスカスは「最も長く人が居住している都市」と言われている。紀元661〜750年の間ダマスカスは東は現在のパキスタンから西は現在のスペインまでを領有する回教帝国ウマイヤ朝の首都であったが、そのウマイヤ朝に取って代わったのはバグダッドに首都をおくアッバス朝だ。このことからバグダッドとダマスカスは、回教の聖地メッカとメディーナと共にアラブ世界では重要な位置を占める。

もっとも、現地に行ってみればわかるが、バグダッドにはあまりこの栄光の時代の遺跡と言いうるものが残っておらず、ダマスカスに比べるとひなびた感じだ。他方シリアのあるレバントといわれる地域はローマ時代の遺跡もあるし、11世紀にヨーロッパから「聖地奪回」を目論む十字軍が攻め込んでくるなど、地中海の向こうのヨーロッパとの交流の歴史も深い。このような交流の歴史を背景に世界のあちこちでアラブの商売人といえばその実レバノン人やシリア人のことだ。一歩内陸に入りこんだイラクに比べると、レバントはだいぶん国際色が豊かな地域だ。こんなことから第一次世界大戦でオスマン・トルコ帝国に対するアラブ人の反乱を扇動したT. E. ローレンス(別名アラビアのローレンス)は、ダマスカスこそがアラブ世界の中心だという見方をしている。

現在のシリアは第一次世界大戦後の英仏による中東の分割に伴いフランス領となった地域で、それが第二次世界大戦後の1946年にフランスから独立したものだ。独立後1970年にハーフェズ・アサードがクーデターによって政権を握るまでは政変が続いていた。アサードは権力を握ると強権を駆使してシリアに安定をもたらした。ハーフェズは2000年に病死し、元々眼科医であった息子のバシャールが政権を引継いだ。

アサード一族は地中海地方に分布するイスラム教のアラウィー派を信仰する部族の出身だ。アラウィー派はイスラム教シーア派の一分派だとされるが、シーア派の影響を受けた独自の教派だと考えた方がよい。アラウィー派の信徒はシリアの人口の約10%で、シリア人の3/4くらいはイスラム教スンニー派の信徒なので、現在のシリアは少数派が多数派を統治している状態だ。少数派統治を安定的に継続させるため、政治から宗教色を排除し、キリスト教徒などの少数派の活動を許し、大まかにいえば軍や政府はアラウィー派出身者がコントロールし、経済は多数派のスンニー派出身者がコントロールする形で統治を安定させてきた。少数派政権であったがゆえに、シリア社会の多様性を積極的に利用し、宗派と部族の微妙なバランスに強権を加えて政権を維持してきたわけだ。

この少数派連合で多数派を抑える統治の形態はサッダム・ホセインが大統領であった時代のイラクでも見られたものだ。イラクは宗派別構成で言うとシーア派60%強、スンニー派が約1/3という国だが、スンニー派のサッダムはキリスト教徒のタリク・アジズを外務大臣(のちに副首相)として重用するとか、軍の主要な地位にキリスト教徒を採用するということをしていた。


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